【30年前】ソウルでの学生生活スタート
どうにかこうにかビザを取得し、ついに出発の日がやってきました。
成田空港へ
大学を2年まで通って、休学をしたわけですが、
友だちがほとんどできなかった大学生活ですが、ある授業で一人だけ、あれこれ気にかけてくれる友だちがいました。
その彼が、空港まで車で送ってくれるというので、迎えに来てもらいました。
出発は1987年の5月。車の中では、発売されてすぐの「ストロベリータイム」(松田聖子)がかかっていました。
今でもこの曲を聞くと、期待と不安でいっぱいの旅立ちの気分になります。
「いつか、松田聖子のコンサートにいきたいね」なんて話をしながら空港に到着。
車の中で聴いていた「ストロベリータイム」のカセットをカシャンと出して、
「もっていっていいよ」とプレゼントしてくれました。
ふわっと、新たなロマンスの気分にもなりましたが、その彼とはそれっきり・・・。
ソウルでの新生活
韓国・金浦空港には、保証人をたのんだ牧師先生の息子さんが迎えに来てくれていました。
その日は牧師先生の家に一泊。
翌日、その息子さんと一緒に市場へいって布団を買い、その足で高麗大学へ行って、語学研修所の職員さんが紹介してくれた下宿に即入居。
当時の下宿は、大家さん一家と同居、二人部屋と一人部屋があり、シャワーとトイレは共同、朝食と夕食は下宿人全員で一緒に食べる、洗濯物も下着以外は洗ってくれる、というものでした。
これで、一人部屋が一か月20万ウォン。
入居を決めた日の夜、他の下宿生たちが歓迎会を開いてくれました。
私以外の4人はみな、男子学生で、それはそれは親切にしてくれました。
当時、私の韓国語はほぼゼロレベルでしたので、筆談と手振り身振りでの会話です。
それでも、勉強机がないといえば「使ってないのがある」と言って、他の部屋から移動してくれたり、
ハンガーが欲しいと言えば買い物にも付き合ってくれたり、
韓国語の上達のために日本語学科の学生を紹介してくれたり、
とにかく至れり尽くせりでした。
ただ、この下宿の学生たちは釜山2人、大邱2人。みな、慶尚道出身の学生でした。
つまり、当初、私の身に着いた韓国語は慶尚道の方言だったのです。
ワクラノ(ラにアクセント)・・・와그라노 どうしたの?
パンムンナ(ムにアクセント)・・・밥뭇나 ごはんたべた?
最初に覚えたのがこのフレーズ。後で知ったら、こてこての慶尚道方言!
ソウルに暮らせばソウル言葉が身につくわけではないってことですね。
留学生活のコツ
新生活立ち上げ準備を手伝ってもらいながら、韓国式のコミュニケーションの基礎も学びました。
初対面だった歓迎会の席でも、私自身のことはもちろん、両親の年齢、職業、年収に至るまで根掘り葉掘り聞かれました。
意外と、答えられないんですね、自分自身のことさえ。
年齢や恋人の有無、大学の専攻などは即答できても、
韓国に来た理由、韓国語以外に何を勉強したいのか、韓国語を学んで何をしたいのか、聞かれても答えられない。
自分の無計画ぶりに驚くほどでした。
「大学生活がおもしろくなかったから」という後ろ向きな理由だけじゃ恰好つかないなと考えて、
日韓関係の歴史を知りたいとか、韓国の伝統文化を知りたいとか、日本との違いとか、
気持ちさえあれば積極的に学べるのだという事にも気が付きました。
そして、人が集まれば必ずと言っていいほど、歌を歌わされる。
突然、歌えと言われて歌えるものでもなく、苦労しました。
メロディーが単純で、歌詞まで覚えて間違わずに歌えるものは・・・、
歌を指名されたら滝廉太郎の「花」を歌う、と決めました。
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そして、酒。
とにかく、人が集まれば酒を飲め飲めとすすめられます。
いわゆる一気飲みをして、コップを空にして相手に渡す。
今では日本も韓国も「アルコールの強要」はずいぶん減りましたが、
当時はまだまだ「酒が飲めない?つまんないヤツ!」という空気がありました。
幸い、当時は私もずいぶん「いけるクチ」でしたので、これもクリア。
プライバシーを捨て、歌を歌い、酒を浴びるほど飲む。
韓国での新生活も軌道に乗ってきました。
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