【30年前】留学生活を終えて-残りの学生生活と就職活動-
韓国へ行けば、留学をすれば、何かがあるだろうと漠然と期待していましたが、
現実は厳しく、ただ「いる」だけでは何も起こりませんでした。
留学生活後半戦
留学生活終了!
留学生活もついに終わりました。
設立して間もない語学コースでしたので、
先生方はとても親身でしたし、授業も充実していました。
韓国語はどうにか、「読める、話せる」レベルにはなりましたが、
ネイティブ同志の会話は聞き取れません。
ゆっくりと、初歩的な単語を使って話してくれれば聞き取れる程度でした。
5月から2月まで、9か月の留学で身についたのは、
そのくらいの語学力と、「何かしなければ」という焦りでした。
帰国後の学生生活-通訳にチャレンジ-
私が初めて韓国語に出会ったのが、教会の勉強会だったことから、
留学にあたっての保証人も牧師先生でした。
そんなご縁から、教会関係から、翻訳や通訳を頼まれることがありました。
しかし、そもそも通訳できるほどの実力ありません。
「学生だから安くやってくれる」という期待には添えますが、
「その分、品質は保証しませんよ」という但し書きも付けました。
韓国YMCYを通じて、韓国の農村から日本の農村を見学に来る、
チェルノブイリ事故を機に日韓で反原発運動団体の交流をする、
非正規女性労働者の日韓交流集会がある、
という場での通訳・・・
お客さんの中には、私より韓国語ができる?という方もいて、
むしろ私が教えてもらうという場面もありました。
韓国語を勉強しなおす
通訳の場では、さんざん恥をかきました。
それでわかったのは、
私の頭の中の韓国語は、韓国語の「例文」「用例」が詰まっているだけで、
文法体系
というものがありませんでした。
たとえば、極端な例ですが、
「作りました」は言えても、「作る」という原形(終止形)はわからない。
だから、引用(作るという)や、伝聞(作ったようだ)など、応用が利かない。
ということです。
そうすると、どうなるか。
私の韓国語は、「マンドゥ・・・ダ(作り・・・でした)」のような感じで、
文末がもにょもにょもにょ・・・とごまかしながら消えてしまう。
発音も、同じです。たとえば、私の大好きな「エゴマの葉」。
「ケンニプ」という名前はしっている、単語も깻잎(kkes-ip)と書ける。
なぜそれを「ケンニプ」とよむのか、わからない、nの音がなぜはいるの??
という状態でした。
お金をもらって勉強できた
たとえ学生アルバイトとはいえ、
まったく通用しないレベルだったと思います。
なにより「学習者が少ない時代だった」ということに助けられたと思います。
アルバイト代をもらいながら、勉強できた幸運に感謝しています。
学生生活も終わり、就活?
「韓国語を使って何をするのか」という課題に答えは見つからないまま、
学生生活は終わりそう・・・。
卒業したのが1990年で、バブルの余韻が残る頃です。
いくらでも職場はある、という余裕があったで、
春休みが終わるころまで、ふらふらしていても、親は文句もいいませんでした。
韓国語が使える仕事
3月も終わる頃、新聞の求人広告を見ていたら、
「日本語学校職員募集」
に目が留まりました。
日本語学校=外国人=韓国人がいる?=韓国語使える!
という発想で、電話をして、面接うけて、採用されました。
日本語教師の資格なんてもっていませんし、
(日本語教育能力試験ができたのは、1986年)
とりあえず、事務職です。
半年で解雇
1980年代に中曽根首相が打ち出した「留学生10万人計画」とやらで、
当時、「日本語学校ブーム」でした。
英会話学校や、本屋さんや、中には不動産屋までが日本語学校を作る、
という時代で、私が就職したのも、ブームにのってできた日本語学校でした。
日本語学校の事務は、主に、
外国から日本に来るためのビザ申請業務です。
必要書類を説明したり、書類内容の作成・チェックなど。
それなりに楽しく仕事をしていました。
ところが、ある日突然、「明日から、英会話の仕事して」と言われました。
学生が減ってきたから、社員を減らす、と。
「いやです」と答えると、「じゃ、こなくていい」。
転職活動
次の仕事を見つけなくてはなりません。
当時、インターネットもまだなかった時代なので、
情報源は、電話帳でした。
通勤圏内の日本語学校に電話をかけまくりました。
中途採用ですからとりあえず「経験者です」と言えるのは、
日本語学校しかありません。
しかし、たいがい「今、募集していません」と断られます。
それでも、ラッキーなことに、
「日本語学校は募集していないけど、え?韓国語ができる?それじゃあ」
といって、併設のホテルで働くことになりました。
ホテルのフロント業務
そこは、「在日韓国YMCA」のホテル。
お客さんの半分が外国人で、そのうちの半分が韓国人。
学生アルバイトも全員韓国人。
勤務時間のほとんどを韓国語で過ごしていました。
「ハンガーが見当たらない」
「国際電話をかけたい」
「靴下を買いたいがどこへ行けばいいか」
「100円玉50個を1000円札にしてくれ」
とにかく要望が多くて、忙しい毎日でした。
楽しい職場でしたが、
結婚して妊娠が判明し、マタニティブルー?のような状態になり、
退職しました。
今思うと、もったいなかったな、と思います。
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2016年 5月 11日
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